善意や良心、親切心。そういった言葉を並べると、あまりに教条的に過ぎるだろうか。それともいかにも道徳的で堅苦しいと思われるだろうか。それらはもはや廃れてしまった前時代の感性で、今や偽善にしか感じられないだろうか。そういえばニック・ロウに「(What's So Funny ‘bout) Peace, Love and Understanding?」という曲があったが、やはり、この世界を支えるにはそうした手あかにまみれた感性の埃を払い続けることでしか成し得ないし、自分たちの人間性を失わない術も、その願いを強く持つことからしか生まれないのではないかと思う。
もちろん、あらためてそんなことを感じずにはいられないほど、世界は切羽詰まっていて、誰もが自分のことだけで精一杯ということもある。でも、その「自分のこと」というのが正気を失うことを意味するのであれば、そんな自分を保つことが何になるだろう。照れ臭く感じる必要はないし、ましてやあざ笑うものではない。と、きっとこの曲が多くの人にカバーされてきた理由も、そんな点にあるのだろう。そして、それはむしろ今でこそ必要とされるはずだ。善意や良心、親切心。そして平和、愛、他者を理解し、共感しようとする心が。
今月末にリリースするバーグマン&サリナスのアルバム『Fullmoon Maple』は、レコード店のどこに置かれるだろうか。それともどのような細分化されたジャンル名でタグ付けされるのだろうか。日和ったレーベル主は、彼らが受容されてきた経歴などから、電子音楽、エクスペリメンタル、アンビエント、もしくはニューエイジ、そんな言葉をひねり出して並べるしかなかったが、そこは方便だと許してもらいたい。
バーグマンとサリナス、アルバム・タイトルで「ひとりの不幸なアメリカ人」と名乗っていた男性(アーロン・バーグマン)と、子どものころからテープレコーダーで音を収集することに夢中だったスペイン人女性(アレハンドラ・サリナス)。もともとふたりはそれぞれのファースト・ネームからアレハンドラ&アーロン(もしくはアレハンドラ&アンダーウッド)と名乗り、90年代の終わりごろから制作をはじめ、2000年代に入って数々の作品を発表してきた。また、欧米によくある中華料理店を想起させるラッキー・キッチンという名前を冠したレーベルを運営してきたことでも知られていて、そう、今回のリリースのきっかけをつくってくれたASUNAのファースト・アルバム『Organ Leaf』を世に送ったのがそのレーベルだったのだといえば、より身近に感じてもらえるだろうか。
なお、バーグマン&サリナスというプロジェクトのメンバーは先述したふたりだけではない。公私ともにわたるパートナーでもあるふたりの愛娘、アグネス・バーグマン・サリナスも加えた3人であることも、彼(女)らの創作/生活への態度を表しているだろう。上の写真を見る限りまだあどけない(が、同時に何かを見抜いているような)表情のアグネスだが、この『Fullmoon Maple』においては、アルバムのアートワークを手がけただけでなく、本日公開したアルバムからの試聴曲「To Reply Your Kindness」で聴くことのできるピアノの一部も弾いているらしい。では、だからといって、彼(女)らが単にほほえましいファミリー・プロジェクトであるわけではないことは、いうまでもないだろう。
昨今では「不安」の代名詞になってしまった感もある「未来」や「将来」といったものから、その言葉本来の意味を取り戻す存在としてアグネスがいるのではないか。それがあながち考えすぎでもなさそうなのは、本作に付属する56ページの冊子に掲載したASUNAと、そしてアレハンドラ・サリナス、アーロン・バーグマンふたりによるふたつの文章を読んでいただければ、きっとうなずいていただけるだろう。
他者とどのように出会い、そしてどのように触れ合ってその関係を育み、より深いものにしていくことができるのか。また、音楽がどのように社会に対して扉を開くものになりうるか。さらに、2万字を超えるASUNAの長い文章からは、レーベルのヒストリーや関連作品の紹介・解説だけでなく、著者である彼自身が世に出ようとした際の怯えや勇気を軸としたひとりの青年の個人史としても、とても興味深いものがある。
なお、本作の発売は今月末、5月30日の予定だが、ひと足早くちょうど今日から米ロスアンジェルスで開催されるLAアート・ブック・フェアの一ブース(B-10)でも並べられているようだ。そのブースはインカ・プレスという小出版社のもので、アレハンドラ・サリナスとアーロン・バーグマンがディレクターを務めている。
参考までに、そのインカ・プレスが発行している書籍のタイトルに短い紹介文を添えて書いておこう。僕もまだ実物を手にしたことはないのだが、彼(女)らの関心がどのようなことに向いているのか、そうしたことが少しは伝わるだろう。
『Decolonize Art?』
ボリビア系ドイツ人で、哲学者/前ボリビア国立美術館キュレーターであるマックス・ホルヘ・ヒンデラー・クルスによる冊子。『KIRKI QHAÑI – Container of Andean Poetics』
アンデスの先住民族であるアイマラ族の詩学を、脱植民地化プロジェクトの文脈に据えたエッセイ/詩・歌集。『CONTRA EL bien general』
カール・マルクス『資本論』からの引用とアメリカ合衆国農務省のパブリック・ドメイン写真で構成した冊子。
なお、以前、僕がやっていた『map』という雑誌の第3号(2002年)でラッキー・キッチンの小特集をやったのだが、そこに掲載したふたりの言葉も、ここで一部を抜粋しておこう。
今の世界にとって「ファンタジー」は重要だと思っています。「ファンタジー」は未来に希望の余地があることを教えてくれます。個人的な富についてのファンタジーだけではなく、より大きくて奇妙なファンタジーがあれば、世界は少しずつよくなっていくでしょう。ユートピア的な夢と欲求は重要だと思っています。本当の変化は夢からはじまるんですから。
少しアーシュラ・K・ル=グウィンを連想してしまったが、ファンタジーの力を信じていたふたりが、この取材から二十数年を経た今、何を思っているのか。そんなことのヒントも本作『Fullmoon Maple』に収められているに違いない。
最後に、この『Fullmoon Maple』の冊子を編集していて強く思ったのだが、自分の中で『スウィート・ドリームス』第5号をつくったあとに本作のリリースが続いたのは、何かの意志を託されるような必然だった気がしてならない。ぜひ、どちらも手に取っていただければ幸いです。
そしてもちろん、まずは聴いてみてください。下にSoundCloudのプレイヤーを埋め込んでおきます。それでは、アーロン・バーグマンとアレハンドラ・サリナスのふたりにとっては18年ぶりの、そしてきっと、アグネス・バーグマン・サリナスにとって初めての音楽作品『Fullmoon Maple』を、楽しみにお待ちください。多くの人にとって大切な作品となることを信じています。